新着情報
- 12/1/14

- 第84回聖会は、御恵みのうちに終了致しました。
神様の救いの愛を感謝します。沢山の皆様のお祈りをありがとうございました。 次回の85回聖会は2012年2月17日になります。 - 11/12/17
- 第83回聖会は、聖霊充満のうちに終了致しました。
神様の大いなる御恵みを感謝し、ともに皆様のお祈りをありがとうございました。 次回の84回聖会は2012年1月20日になります。 - 11/11/19
- 第82回聖会は、祝福のうちに終了致しました。
罪の許しを信じる特権を感謝します。
次回の83回聖会は2011年12月16日になります。 - 11/10/22
- 第81回聖会は、御恩みのうちに終了致しました。
主と共に良きひと時でした。皆様のお祈りをありがとうございます。
次回の82回聖会は2011年11月18日になります。
オリーブ日記
-
2011年12月16日、17日 第83回 日光オリーブの里聖会
「ワンダフル・ジーザス」
ルカによる福音書2章1節〜11節
今回のタイトルは、「ワンダフル」という英語である。「なぜ、『素晴らしいイエス様』と日本語にしないのか」とお叱りを受けそうだが、英語のワンダーという言葉には「不思議」という意味があり、いかにイエス様が不思議に満ちた方であるかということを語りたくて、敢て、この英語のタイトルを選んだ。
まず、イエス様の出生の不思議だが、母マリアと夫となるヨセフはベツレヘムから100kmほど離れたナザレに住んでいた。当時のローマ皇帝アウグストが属国のユダヤ人に本籍地登録を命じた為に、マリアが臨月間近であったにもかかわらず、二人は本籍のベツレヘムに行くことになる。二人の意志とは関係なく、旧約の預言者ミカの預言「キリストはベツレヘムで生まれる」が実現する。そして、このキリストはベツレヘムの家畜小屋で誕生する。当時の習慣では死んだ人の体を処理するのに家畜小屋が使われ、そこに置かれた布は、死体を包む為の布であった。これは、まさしくキリストとしてのイエス様の誕生を暗示する場所であり、神が歴史の背後ですべてを支配していることを知らせる出来事であった。
しかも、このキリストの誕生を最初に聞かされたのは、当時、安息日を守ることも出来ず、戸籍さえもなく、人々に低く見られていた仕事をしていた夜番の羊飼い達であった。
これらのことは、イエス・キリストが、暗闇と死の中にいる人々を照らす光(解決)として闇黒の只中に生まれたことを告げている。
それでは、私達の人生の闇黒とは何であろうか?
それは、恐れ、不信仰、罪(罪責感)である。
「怖がるな、恐れるな」は、聖書に一貫して流れるメッセージである。
また、不信仰とは、私達を愛し、私達の最善を望んでおられる神様の愛と、その全能の力と、時間を超えた永遠性を疑うことである。私達は、目に見えるものに捉われ、自分の思うようにすることで、上手に神様からの祝福をよけて通るようなことをしていないであろうか?
私達の心の中にある罪(罪責感)については、イエスの誕生に際して、マリアの夫ヨセフに「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1:21)」と語られている。
人生の暗闇の中に座っている私達の中に、光としてイエス様が来た!
このクリスマスの時に、顔を上げて、イエス様の光の中を歩もうではないか!
安食 弘幸 牧師 -
2011年11月18日、19日 第82回 日光オリーブの里聖会
「ヨハネ福音書における神の栄光」
ヨハネによる福音書2章1節〜12節
4つの福音書はそれぞれ特徴のある書き出しで始まる。
マタイによる福音書はイエス・キリストの系図で始まり、マルコによる福音書はイエス様のバプテスマで始まり、ルカによる福音書はバプテスマのヨハネの誕生で始まる。一方、ヨハネによる福音書は「初めに、ことば(イエス・キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」すなわち、イエス・キリストは神であるという宣言で始まっている。
そして、このヨハネによる福音書には7つの奇跡物語(@カナの婚礼‐1:1〜11,A役人の息子の癒し‐4:46〜54、Bベテスダの池の男の癒し―5:1〜18,C5つのパンと2匹の魚―6:1〜14,D湖上を歩くイエス様-6:16〜21,E盲人の癒し9:1〜12,Fラザロの復活11:1〜44)が、書かれている。今回聖書で読んだ、カナにおける婚礼で、水をぶどう酒に変えるという奇跡は、イエス・キリストの行った初めての奇跡である。
イエス・キリストの行った奇跡にはどのような意味があったのであろうか。 当時のユダヤ人のリーダーは、イエス様を神様であるとは信じていなかった。イエス様が、「私と父は一つである(ヨハネ12章)」また、「私を見たものは父を見た(ヨハネ14章)」と自ら語っているにもかかわらずである。この不信仰な時代の人々に向けて、人が出来ないことを出来る神であるということを公に示すことによって、天に栄光を帰したのである。
天地万物を創られた方が、水をブドウ酒に変えることなど出来ないわけがない。そして、それを信じられるということが、何よりの恵み、特権であるということを覚えて、感謝すべきである。
神であり、神としての実力を持っているイエス様であるから、「あなたの罪は赦された」と宣言することができたのである。
そのイエス様は、今日も変わらずに、私たちの神であり、主である。そのイエス様を送ってくださった神様に感謝し、その霊を注いでくださる聖霊様に感謝しよう。神の国の支配が来ている新しい時代に、しるし(奇跡)だけを求めるのではないが、しるしをもってご自分が神であることを示されるイエス・キリストのお名前で神のご栄光をあらわすようにと祈る。
長屋 勇 牧師 -
2011年10月21日、22日 第81回 日光オリーブの里聖会
「あなたに語られている」
創世記 3章9節
「あなたは、どこにいるのか」これは、人間が罪を犯してのち、最初に語られた神の言葉、すなわち神様の私達への愛の言葉である。
聖書は、私たちを愛してやまない神様が、私たちを正しい道に導き、間違った道に行かないように私たちに語られた言葉である。言うなれば、私たち人間を創り、命を与え、一人一人の魂を愛して下さる神様からの私たちにつけられた取扱説明書である。しかし、私たちは、電化製品の取扱書などもそうであるように、その取扱説明書を読まずに、勝手な生き方をして、神様から離れ、自分の命の尊さを知らずに、人生を壊してしまうのではないであろうか?
その私たちに「あなたはどこにいるのか」と今日も呼びかけて下さる神様。神様の前に、私の心が出られず、居るべきでない所にいることの多い私、その結果、「良い夫、良い父親、良い牧師」になれず、小さなことでいさかいが絶えないような私にも、神様は「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」と言って下さっている。「真理は私たちを自由にする」と聖書は言っている。自由とは、正直で素直な心のことである。聖書に書かれている真理とは、何もふさわしいところのない罪人の頭である私の罪のために神様はかけがえのない独り子のイエス・キリストを十字架につけて殺した神様の愛である。自分さえも捨ててしまうような私のために十字架にかかり、よみがえり、天に昇った私たちの弁護人であるイエスは、今も私たちのためにとりなしをしていて下さり、世の終わりまで、いつも共にいて下さる。「もはや、あなたの罪を思い出さない」という神様。神様の愛、キリストの愛から私たちを引き離すものは何もない。
神様は、今日もあなたに呼びかけている。「あなたは、どこにいるのか」と。心の扉を開いて、このイエス・キリストをあなたの救い主として受け取って下さい。聖霊としてのイエス・キリストがあなたのうちに住んで下さいます。
木村 公繁 牧師 -
2011年9月16日、17日 第80回 日光オリーブの里聖会
「肉か御霊か」 〜あなたの土台は〜
コリント人への手紙 3章10〜17節
土台というものについて、本当に考えさせられたのは、阪神淡路大震災の時であった。同じような所にあっても建物によって壊れ方が違うのを見て、私はその違いはなんであろうかと思ったのである。地盤の固い所にあるものは壊れにくいということをその震災を通して学んだのである。
今、聖書から私たちの立てられている土台を掘り下げてみよう。
第1に聖書は、私たちが神の幼子であり、聖なる者であり、神に愛されている者であることを教えている。幼子は、自分で何もすることはできない。自分を立派と思う人、周りの人のせいにする人には神の愛はわからない。生きているのではなく、周りの人の祈りや忍耐によって生かされている。教会は、肉にある者から、霊にある者へと神の幼子を育んでいくものである。聖なる者であるということは、自分が神の者であり、どんな状態にあろうとも、神に愛され、神の側にいつも付く者、そして神の望まれるように歩みたいと望むものである。気仙語訳では「神の御大切」と、私たちへの神の愛を訳している。
第2に聖書は、私たちが霊に満たされ、キリストに土台を置き、命ある神の言葉の種をまき、育てる畑であると教えている。真の教会の姿とは、神が召して下さった人々を慰め、励まし、育てていくものである。ご自身の命まで捨てて私たちの命の土台となって下さった、このイエス・キリスト以外に土台はない。このイエス・キリストの言葉のうちにある愛と恵をしっかりと見据えて、愛するゆえに神に従って行きましょう。
第3に聖書は、私たちの人生のゴールは神の御国であると教えている。この世の人生においては、不公平に見えるような多くの苦難や痛みがある。しかし、真価が試される時が来る。だから、周りがどのようであれ、キリストから頂いた命を奪われるような生き方をしてはならない。人生で揺れ動く日もあるだろう。しかし、五重塔の建築を見てもそうだが、揺れるからこそ倒れない生き方がある。心柱がキリストであるなら、どんなに揺れ動いても、倒れることはないのである。
「死に至るまで忠実であれ」それが私たちの生き方でありたい。キリストという土台の上に建てられたものは、決して見捨てられることはない。御霊自身が私たちの内に住んでいる。その生き生きとした命は決して奪われることはない。神の国は、言葉ではなく力にある、神の力を待ち望み、御霊に導かれて行こうではないか。
「生きる目的は、苦しみを無くすことではなく、苦しみを実りあるものとすることである。(トゥルニエ)」
斉藤 哲哉 牧師