新着情報
- 12/4/21

- 第87回聖会は、御恵みのうちに終了致しました。
神様の祝福と愛を感謝致します。沢山の皆様のお祈りをありがとうございます。 次回の88回聖会は2012年5月18日になります。 - 12/3/17
- 第86回聖会は、聖霊充満のうちに終了致しました。
「心配するな」と想像を絶するような方法で愛を注いで下さる神様の恵みを感謝します。 次回の87回聖会は2012年4月20日になります。 - 12/2/18
- 第85回聖会は、祝福のうちに終了致しました。
主の導きを感謝します。皆様の心からのお祈りをありがとうございました。 次回の86回聖会は2012年3月16日になります。
オリーブ日記
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2012年4月20日、21日 第87回 日光オリーブの里聖会
「神様の植えたい二本の木」
詩篇92編10〜15節
聖書の中には二本の木が出てくる。すぐに思い浮かぶのは、エデンの園に植えられた命の木と善悪を知る木である。最初の人アダムとエバが、この「善悪を知る木」をどう扱うかによって人類の将来が決まったといっても過言ではない。同様に、今の時代を生きる私たちにとっては「キリストの十字架の木」をどう扱うかによって、その人の人生が決まる。
正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。(詩編92:12)
彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。(詩編92:13)
今日は、神様がご自分の庭に植えたいこの二本の木から、神様が植えたいクリスチャンの姿を見てみたい。
ナツメヤシの木
1)根元から天辺まで定規のように真直ぐ伸びている。
上に輝いているキリストの再臨の希望に向かって、福音に対して真直ぐに生きる姿の象徴である。
2)天辺に優雅な葉をたたえている。
棕櫚の葉は賛美と礼拝のシンボルであった。クリスチャンが賛美と礼拝をするのはお勤めではない。
@すべての創造主である神を知っているから、その素晴らしさを賛美し、
A罪人である自分の代わりに十字架で死んで下さった神様の愛を知っているから、嬉しさで賛美し、
B聖霊に満たされているから賛美せずにはいられないのである。
3)数え切れないほどの実をつける。(1本の木に平均12000個ほど)
クリスチャンの生活は豊かである。教会やクリスチャンの「豊かさ」の定義はそれぞれに違うが、私はマケドニアの教会のように、財布はどん底だが喜びに満たされて捧げる教会の姿が、神様の御臨在の中の豊かさであると考える。ソロモン以上に豊かな三位一体の神がいるから心配はいらない。
レバノン杉
1)重い木である。
神様の目には、クリスチャン一人一人は高価で尊い「重い人」である。イエス・キリストのもとに来て聖霊とみ言葉に満たされる時、「重い人」となり、誰もあなたを揺り動かすことはできないのである。
2)堅い木である。
クリスチャンは、福音と三位一体の神様への忠誠に加えて、神様の恵みによって強固な意志を与えられるのである。それはペテロ第1の手紙5章によれば、獲物を探すサタンの歯が折れてしまう程の堅さである。
3)耐久性のある、腐らない木である。
この地上では、教会もここのクリスチャンも完全に堕落しないパーフェクトな存在になるわけではないが、堕落しないように聖化聖霊の満たしを与えられている。イエス・キリストによって、この木のように油に満たされ、不思議な天の香りで満たされる。
神様はこんな木を、ご自分の庭に植えたかったのである。自分の力ではなく、神様の庭、神様の家、聖霊様の臨在の中で、神様が現わされる時、人はこのような木に育っていくのである。
彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。(詩編92:14)
万年 紀八郎 牧師 -
2012年3月16日、17日 第86回 日光オリーブの里聖会
「空の鳥、野の花を見よ」
マタイによる福音書6章26〜34節・第1テサロニケ5章16〜18節
私達の周りには、実に多くの空の鳥たちがいる。そしてまた、季節ごとに実に多くの野の花が咲いている。中には、私の人生で68年間気がつかなかったような植物が足元で咲いていたりする。新改訳聖書で訳されている「野のゆり」という言葉はクリノンという言葉で、聖地に咲く野の花である。アネモネ、ラナンキュロス、ヒナゲシ、アドニス…と諸説あるようであるが、イエス様は、これらの鳥や花を「注意して見なさい」と言っておられる。色合い、形、構造、どれを見ても神のデザインやユーモアの素晴らしさを思わずにはいられない。
また、イエス様は、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいない」と言われている。それどころか、私達はそのような花よりもはるかにまさっていると言っておられる。
これを通して、イエス様は何を私達に語りかけておられるのだろうか。
「心配するな」。
メリヌナオー(心配する)という言葉は、心の分割された状態を意味し、英語のワリー(worry)という言葉も、「絞め殺す」という言葉が語源である。思い煩いからは何も生まれてはこない。神は私達の想像を絶するような方法で道を用意しておられる。
神が、私達に望んでおられること。
1) 喜べ
私達の人生で喜べない時にこそ「喜びなさい」という言葉が生きてくる。困難の中で、自分でも自分が愛せないようなこの私を愛し、私のために死んで下さった神の愛を知った時に、本当の喜びが心の中に生れてくる。
2) 感謝せよ
北海道家庭学校は問題を抱えた少年たちの家である。そこに「難有」という額が掛けられている。ヨハネ福音書16章33節に、私達の人生は困難があると書かれている。この「難」から逃げずにキリストを信じることによってチャレンジすることで、主から与えられる喜びが出てくる。そして恵みを感じていく霊的な感受性が養われ、新しい人生が開けるのだ。その時に「難有」は「有難う」に変わる。
3) 祈れ
喜べないし感謝もできない時がある。だからこそ、「あなたの思い煩い、不安、怖れをすべて私のところに持ってきなさい。私が休ませてあげます」とイエス様は言われる。イライラをイエス様にぶつけたマルタのように、思いを正直にイエス様にぶつける時、それは祈りとなり、あなたはキリスト・イエスにあるものとなるのである。
一羽の雀にさえ目を留めて下さっているイエス様は、絶えず私にも目を留めていて下さっているのだ。
横山幹雄 牧師 -
2012年2月17日、18日 第85回 日光オリーブの里聖会
「わたしたちは神の民」
ペテロの手紙第一 2章9節
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしい御業を、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
人生の中で、道を求め、真理を求め、いのちを求めている人はたくさんいる。物理学者の湯川秀樹しかり、紀元前6世紀の孔子もまたそうである。「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われたイエス・キリストが、私達が何者で、どう生きるべきなのかを示すことができたのである。
ところで、ペテロの手紙第一 2章9節の前半には、「私たちは何者なのか」という、クリスチャンのアイデンティティーが語られている。「選ばれた種族 王である祭司 聖なる国民 神の所有とされた民選ばれた民」とは、人と神の間に立つ祭司として、この世から神によって呼び出され、使命を与えられ人々の集まりである「教会」を表している。
ここで言う「教会」には3つの意味がある。
まずは、目に見えない「普遍的教会」である。これは、教派を超えて、信仰の証人達の群れを意味する。 第2には、目に見える、私たちクリスチャン一人一人が成長するための「地域の教会」である。 そして第3に、クリスチャン一人一人が「教会」である。私たち一人一人は、神に愛された作品として「あなたがたは神の神殿」「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ」る者として作られているのである。
後半には、そのようなアイデンティティーを持つ者の生き方が書かれている。それは、私達の人生の普通の生活の中でイエス・キリストご自身を表していくという生き方である。
まずは、主との交わりを通して神の素晴らしさを表すこと。いのちの初めが「安息」であったように、礼拝の中でキリストの命をいただいて生きること。
第2に、自分を主に捧げることを通して神の素晴らしさを表すこと。不完全な私達も、私達の内に住むキリストの霊と一体となることで、神に捧げるにふさわしい「傷のないもの」と、神は見て下さる。 そして第3に、自分の十字架を負うことによって神の素晴らしさを表すこと。自分の十字架を負うとは、自分をアピールするのではなく、キリストをアピールする生き方である。
ではそのために何をするべきか、と心配することはない。神の「力ある業」とは、ただ「イエス・キリストを信じること」に尽きる。この、アイデンティティーを再確認して、今日もキリストの命を表すために、素晴らしい恵みを下さった神に感謝して生きようではないか。
新嘉喜 順一 牧師 -
2012年1月20日、21日 第84回 日光オリーブの里聖会
「三位一体の神」
創世記1章1節・ヨハネによる福音書3章16節
「輝く日を仰ぐとき」という聖歌は、聖書全体をまとめているような聖歌である。私たちにとっての1番の喜びは、いのちの神を知ることである。 そのことが、大自然を通し、御言葉を通し歌われているのがこの聖歌である。
人は命のあるものを作ることはできないが、真の神は、命あるものを創られる神である。
聖書はまた、その唯一の神は三位一体の神であると教えている。私達の理性では理解することが出来ないが、真の神が三位一体であるということは、奥義であり神秘である。なぜなら、この三位一体の中に愛の交わりがあるからである。
愛は対象が必要である。父なる神、子なる神、聖霊なる神が、麗しい愛の交わりの中に結ばれているからこそ、神の愛の奥儀があるのである。偽物の愛は自分たちだけ良ければよいと思うが、本当の愛は他者に向かってあふれ出てくるものである。神の愛は、父、子、聖霊の中から外に向かってあふれ出て、いのちが外にあふれ出したのである。まずそれは、神が天地万物を創るという形で現れている。また、神は、人を男と女に創った。それは、神に似せられて創られた人が、互いに愛し合い、いのちを生み出すためである。
このように神が人を創られたのは、神が人と一緒に喜びを分かち合うためであった。愛の特徴は分かち合いである。しかし、人は、いのちよりも知性を選び、神との交わりから離れていった。
罪による神との断絶のため、いのちを失った人を、愛の神は、その交わりに戻そう、戻そうとして、子イエス・キリストを世に降した。命を失って死んだものに、いのちを与えるために、いのちを捨てるというのが、神の愛の第2の表れである。
イエス・キリストを通してのみ、三位一体の愛の神、いのちの神を知ることができるのである。知るとは愛すること、愛することは従うことである。
さあ、空を見上げましょう。天地を創られた力強いいのちの神を思いましょう。静けさの中にも語りかけて下さる神、救い主である神、正しく清く賢い神、また、人をそのように再創造なさる神、そして再び来られる真の主なる神を知りましょう。
床井 洋 牧師